ハンナは夫エルカナの一心の愛を受けて、幸福の只中にありましたが、跡継ぎが与えられていないという一点において、不幸
のドン底にありました。古代社会では跡継ぎの有無は重要な問題です。その苦しみ、悲しみが頂点に達した時、ハンナは自分
の全てを神様の前に注ぎ出して、祈ったのです。ある人はこれを裸の祈りと言いました。神の御前で自分のありのままをさら
け出す祈りという意味です。そもそも、神様に何事も隠すことはできません。それは私たちが積極的に間違いを認め、悔い
改めて、平安と安心をもち続けることができるようにするためです。恵み以外の何ものでもありません。ヨハネの福音書3章
17節「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」
19節で、ハンナが家族と捧げた礼拝は神様が如何なる方であるかを知った喜びにあふれています。内にある全てを出し切り、
訴えた彼女の顔は以前の暗い、悩み、悲しみ、怒りを抱えた顔ではありませんでした。
この後、主はハンナに心を留め、彼女に跡継ぎとなる男子を与えてくださいました。自分に対して、夫に対して、家族に対し
て、そして、神様に対して、長い葛藤を続けてきた末に、授かった待望の子供でした。実に、ハンナの涙なくしては、偉大な
預言者、士師サムエルは生まれなかったのです。エルカナ、ハンナ、そして、一族を真に神に生きる人たちに変えるきっかけ
を作ったサムエルという名は「神、聞きたもう。神の名」という意味です。
悲しみが長く、深く続いただけに、ハンナには子供は親の所有物という意識はありませんでした。自分の子供を神様に捧げる
というハンナの誓願は子供の自主性を尊重していないと考える人がいるかも知れません。しかし、子供は神のもとにあること
が最善であるとハンナは信じたのです。最近、妊活という言葉を耳にしますが、併せて、親として考えさせられることです。
今、彼女には二つの平安がありました。一つは跡継ぎが与えられたという平安です。もう一つは、その子を神に捧げる決心に
よる平安です。自分を苦しめてきたペニンナの前で誇るようなことをしていません。この二つの平安は彼女に明らかな霊的な
変化があったことを示しています。つまり、これさえあればという信仰から、それがなくともという信仰に変わったのです。
元々、ハンナ、エルカナには神への信頼がありました。その信頼が真の信頼に変えられたのです。一人一人の信仰においても、
問われているのは、あなたの信仰は真に神を信頼しているか、それとも、ただ信頼しているだけかです。別の言い方をすれば、
称えられるべき方、讃美されるべき方に信頼し切っているか、委ね切っているかということでしょう。
ハンナの忍耐、全てを捧げた祈り、そして、御心を示された後のエルカナの真の従順、真の信仰は何れも特筆すべきものです。
模範にしたいと思います。全てを導いておられる方こそ、礼拝を受けるに相応しい方です。その方を真中にして、引き続き、
サムエル記から神様の御心を聞いていきます。
唐川 尊議 牧師
2021年6月27日