手を洗うのか、洗わないのか マタイの福音書15章1〜20節

15章は思いがけない記事で始まっています。わざわざエルサレムからやって来たパリサイ人たちや律法学者たちは、イエ
ス様と弟子たちが食事の前に、手を洗わなかったことを咎めたのです。衛生上の問題ではありません。食事の前に手を洗う
のは、
身を聖めてから神の祝福をいただくという意味で大切な律法でした。
この頃、イエス様の名前は人々に知れ渡っていました。神の国のことを教えてきた律法学者たちは自分たちの立場が危うく
なることを恐れ、イエス様を嫉妬し、妬んだのです。それがこの咎めとなったのです。それは憎しみに変わり、主イエスを
十字架につけてしまうことになるのです。
彼らは人々が離れたのは何故かを自らに問い直すべきだったのです。自分の弱さ、間違いを受け入れることは難しいことで
す。しかし、そこに聖霊は豊かに働き、間違いを認め、悔い改める勇気を与えてくださいます。私たちも心したいと思いま
す。
主イエスは彼らの誤りを指摘します。「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを破るのですか。」
父と母を敬えという掟は十戒にも定められており、神様が望まれる、大事な掟の一つです。ところが、実際には、この掟を
ないがしろにしていたのです。神への捧げ物は他に転用することは許されないという言い伝えを盾にして、両親の扶養の
義務を放棄する人たちがいたのです。イエス様はイザヤ書を引用して、間違った言い伝えを糾弾しました。「この民は口先
でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。・・・・。人間の命令を、教えとして教えるのだから。」
律法の番人である律法学者たちがそんな思い違いをしていたのです。人々を裁き、妬みと恨み、やがて、彼らの思いは拭い
去れない憎しみに変わっていきます。それが主イエスを十字架につけてしまうことになるのです。
そもそも、律法や聖書の言葉は人を自由にし、希望と喜びを与えるものです。人倫をないがしろになることはあってはなら
ないことです。大事なことは、父なる神の本質を見失わないことです。そのためには、主イエスに繋がり続けるしかありま
せん。ヨハネの福音書15章5節「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。・・・・。わたしを離れては、あなたがた
は何もすることができないのです。」
17節は今日の要点です。「口に入る物はみな、腹に入り、排泄されて外に出されるのを分からないのですか。しかし、口
から出るものは心から出て来ます。それが人を汚すのです。」
当時のユダヤ人は汚れた動物を食べると、汚れるとか、病人に触れると、神に近づくことができなくなると信じていました。
しかし、イエス様はそれを完全に否定されたのです。真に汚れているものは食べ物、手ではなく、その人の心だと言われた
のです。
神の言葉は私たちを本質に向け続けさせます。それは生きておられる主イエス・キリストという神の息を感じ続けること、
言葉を聞き続けること、又、学び続けることです。そのことにおいて、互いに祈り合い、良い分かち合いを続けられるよう
に歩んで行きたいと思います。

唐川 尊議 牧師

2021年8月22日