ハンナは夫エルカナの愛を受けながらも、後継ぎを得ることができませんでした。エルカナは社会的要請、一族の将来のため
に、第二の妻ペニンナを娶ることになりました。その結果、後継ぎは得られましたが、7節「ハンナが主の家に上って行く
たびに、ペニンナは彼女の怒りをかき立てるのだった。こういうわけで、ハンナは食事をしようともしなかった。」
10節「ハンナの心は痛んでいた。」
ハンナは神様に向かい、激しく祈りました。胸の内にある悲しさ、悔しさ、惨めさ、怒りを涙と共に主の御前に差し出したの
です。彼女の祈りは行儀の良いものではなかったでしょう。取り乱し、乱暴な言葉もあったでしょう。祭司エリはハンナの
祈りを見て、酒に酔っているのではないかと思ったほどでした。心から祈っていたハンナは祭司エリに「私は募る憂いと苛立
ちのために、今まで祈っていたのです。」と説明しています。その結果、神はそれをご自身のご計画に結び付けてくださった
のです。そして、神は良いお方であり、何時も信頼できるお方であること再確認させてくださったのです。
クリスチャンは悪い感情、後ろ向きの感情をもってはならないし、義なる神にぶつけることは失礼だと思い込んでいる人が
います。そうではありません。神様は罪を抱えた私たちが行き場をなくす時、受け入れ、造り変えてくださるのです。これに
前提や限界はありません。恵み以外の何ものでもありません。
又、神様は私たちを裁くお方です。厳しく悔い改めを迫るお方です。神の裁きは誤った道に迷い出た者を正しい道に戻すため
であり、悔い改めは誤った方に向いていた心を神様の方へ向け直すためです。ですから、罪を犯しても、真摯な悔い改めを
するならば、神様に向き合い続けることができるのです。これも恵みです。
イエス様のたとえ話の放蕩息子のように、父親から離れても、父が正しい方であることを忘れなければ、何時でもそこに戻り、
関係を回復することができるのです。その信頼がない人はハンナが捧げたような祈りをすることはできませんし、恵みをいた
だくこともできません。
ハンナは心にある全てを出し切り、大胆な誓願を立てました。11節「もし、私に男の子をくださるなら、私はその子を一生
の間、主にお渡しします。」
彼女は祈りによって変えられたのです。祈りが彼女を導いているのです。ハンナは祈りの中で、神の声を聞き始めたのです。
祈るということは、静かに御心を求めることです。御心を聞くことです。そして、祈ることは自分自身を知ることです。
だから、私たちは祈らなければならないのです。祈りの内容、祈りの言葉があやふやだと聞こえてくる応答もあやふやになり
ます。神様は私たちの正直な思いを聞きたいと願っておられます。聞いて、支えたいと願っておられます。それは義なる神様
との麗しい関係を深めていくことに繋がります。あらいざらいをさらけ出して、祈ったハンナはそれを受けています。18節
「彼女の顔は、もはや以前のようではありませんでした。」
ハンナの姿は祈りが何であるかを私たちに教えています。
唐川 尊議 牧師
2021年6月20日