父としてしなければならないこと サムエル記第一2章11〜26節

神様がハンナの胎を開き、与えられたサムエルは成長し、ハンナの誓願通り、主に捧げられ、祭司エリのもとで主に仕えて
います。シロで礼拝を終えたエルカナはラマの家に帰りますが、幼子サムエルは残りました。信仰によって決断したハンナ
には満たされた思いがあったでしょうが、母親として幼子を置いて行くことに不安もあったでしょう。しかし、この信仰の
決断は当のハンナはもちろん、夫エルカナ、一族、そして、イスラエル国全体の祝福に繋がっていったのです。一粒の種が
地に落ちて、死ねば、豊かな実を結びます。
一方では、神の祝福が取り除かれていく祭司エリの息子たちのことが記されています。
礼拝者が捧げた犠牲の捧げ物の一部は祭司の取り分となり、捧げた人も食べることができました。エリの息子たちはこれを
悪用して、肉の良い部分を先取りしていたのです。神様と人との仲介者である祭司が大事な礼拝を汚し、礼拝に来た人々を
つまづかせていたのです。
農耕生活が中心の当時のイスラエルの人々にとって、罪の贖いのための動物を用意することは経済的に容易なことではあり
ませんでした。神様が人々にそれを求めたのは、大変な思いをして捧げることによって、罪の重さを身と心に刻んで欲しい
からでした。それでも、捧げた後、礼拝者が捧げたものを口にすることができたのは主の憐れみでした。この神様の思いを
踏みにじるエリの息子たちの行為は貪欲と言わざるを得ません。又、彼らにはその他にも宮における性的不道徳行為があっ
たようです。祭司として、自分の子供たちが主にどう向き合っているかを把握できていなかったエリの責任は小さくありま
せん。エリは父親として、祭司として、息子たちを諫めました。イスラエルでは家庭内の父親の権威は絶対です。
イエス様が放蕩息子のたとえをされた時、聴衆は非常に驚きました。父親が生きているのに、息子が財産をせしめて、出て
行くなどあり得ないことだったからです。
25節「しかし、彼らは父の言うことを聞こうとしなかった。彼らを殺すことが主のみこころだった。」
彼らの頑なな態度に神の憐れみも届かなかったようです。エリの息子たちは祭司としてはもちろん、個人としても、神の心
を無視したことになります。それを正すことができなかった父親エリも厳しい最後を迎えていくことになります。又、腐敗
は他の祭司にも及んでいきます。
エリの家はアロンから始まった、神の働きをする由緒ある家系です。神様の厳しさと悔い改めの大切さを思わされます。
一方、26節「少年サムエルは、主にも人にもいつくしまれ、ますます成長した。」
この後、神様はサムエルを選ばれ、神の器として用いていかれます。
私たちも親として、日々の生活の中で、不安、問題を経験することがあるでしょう。たとえ、周りの環境、良い指導者に恵
まれなかったとしても、主はご自身が選んだ人に関わり、導いていかれます。見えないところにも神の御手は及んでいきま
す。神様は良いお方であることを忘れず、なすべきことをしっかりと守り、新しい一週間も歩んでいきたいと思います。

唐川 尊議 牧師

2021年7月18日